<ヘリヴィア>

戦争とヘリコプター

(ヘリヴィア=ヘリコプタ+トリヴィア)

 科学技術は戦争によって進歩する。戦争は石器時代からおこなわれており、その闘争の中でなんとかして敵に勝とうと考えるところから、たとえば石斧が鋭く使いやすくなった。

 航空機も例外ではない。飛行機が実用になると、これが戦争に利用できることは誰しも思いつく。たとえばフランスのブレリオXIが1909年、デイリーメール新聞社の賞金1,000ポンドをめざして史上初の英仏海峡横断に成功するや、イギリス政府は早くも飛行機で攻めてこられたら大変だと直感し、島国だからといって安閑としてはいられないというので、1910年「わが国は飛行機を戦争目的に使うことは考えていない」と宣言して予防線を張った。しかし、それから4年後、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まると、何千機もの飛行機が各地の戦争に投入され、航空技術は一挙に進歩した。

 同じように、ヘリコプターは朝鮮戦争(1950〜53年)で試され、ベトナム戦争(1960〜75年)で大きく進歩する。

ベトナム戦争とヘリコプター

 第2次大戦時に初めてヘリコプターを使ったアメリカ軍は、朝鮮戦争(1950〜53年)が始まると実用まもないベル47やシコルスキーS-55を連絡、監視、偵察などに使用、前線から野戦病院へ負傷兵を搬送し、兵員の移動にも当てた。

 次のベトナム戦争(1960〜75年)では、初めからジャングル地帯の兵員輸送、攻撃、救助などの用法を想定し、ヘリコプターの利用を本格化する。そして、最新のベルUH-1を初め、おびただしい数のヘリコプターを送りこんだが、これによって戦場における戦闘行動は根底から変わる。

 たとえばヘリコプターを活用した「ヘリボーン作戦」はジャングルでも山岳地でも地上部隊の迅速な移動を可能とした。同時に、火器を搭載したヘリコプターは強力な攻撃手段となる。さらに捜索と救難、負傷兵の救出と後送、弾薬や物資の補給輸送などの任務にも効果的な役割を果たした。

 ベトナムの戦場では、さまざまなヘリコプターが大量に投入され、その経験と実績によって技術的にも大きく進歩した。しかし一方では1975年の停戦まで、15年間に失われた航空機も多く、ヘリコプターと飛行機を合わせて8,500機以上。戦死したパイロットや乗員も58,000人を超えたという。


ベトナムの空を覆うアメリカ軍のヒューイ・ヘリコプター

ヘリコプター戦争

 ベトナム戦争に送りこまれた米軍ヘリコプターは約12,000機。その操縦に当たったパイロットは40,000人以上で、このおびただしい動員数から、ベトナム戦争は「ヘリコプター戦争」とも呼ばれる。

 使用されたヘリコプターは7,000機以上がベルUH-1ヒューイであった。そのためベトナム戦争が始まるや一挙に大量生産に入り、1975年までに1万機以上が製造された。

 その実績から民間型204Bに発展し、その1号機を受領したのは筆者の勤務先だった。そのため私も当時、何度かダラス・フォトワースのベル社を訪ねるようになった。正門を入ったところに「ベトナムまで8,500マイル」と記したボードが矢印の先をベトナムの方角に向けて立ててあり、工場では組立ラインが忙しく動き、壁の高いところには「われわれも共に戦おう」というスローガンが大書して掲げてあった。

武装攻撃ヘリコプター

 ベトナム戦争によって近代化したヘリコプターは、軍用機としての能力を磨き上げ、湾岸戦争でいっそう強力な兵器に成長する。とりわけ目立つのが攻撃ヘリコプターであった。

 それまでヘリコプターは近距離の戦術輸送,探索,救助など、戦闘には直接関係しない任務が多かったが,性能の向上に伴い、ベトナム戦争で初めて攻撃専用のAH-1が出現する。UHー1の胴体を細くして短固定翼をつけ、機首を前後2人乗りのコクピットに改め、前席に射手、後席にパイロットが乗るようにしたもの。短固定翼にはミサイルやロケット弾などの火器を取りつける。

 代表的な武装攻撃ヘリコプタは、アメリカのAH-1Sコブラ,AH-64アパッチ、ドイツとフランスの共同開発になるタイガー、イタリアのA129、ロシアのミルMi-24、Mi-28、カモフKa-50/52などがある。日本の陸上自衛隊もAH-1とAH-64を保有する。

 このうちボーイングAH-64アパッチ攻撃機は湾岸戦争でめざましい機能を発揮した。初飛行は1975年9月30日。米陸軍の発達型攻撃ヘリコプター(AAH)として、速度性能、旋回性能、戦闘時間、火器搭載能力、防弾生存性、高温特性などにすぐれ、対戦車ミサイル「ヘルファイア」16基の攻撃力を有する。現在1,000機以上が使われており、今後なお改良、改造など、進化の手が加えられつつある。


アパッチ攻撃ヘリコプター

サイゴン最後の日

 もとに戻って、ベトナムの地でおびただしい犠牲を払い、何も得ることがないのを悟った米国は、1975年ついに戦争継続を諦める。サイゴン周辺には15万人の北ベトナム軍が迫り、市内は大混乱に陥った。

 その陥落の日、1975年4月29日の朝早く、サイゴンの米軍向けラジオ放送がビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」を流した。季節外れの曲目は外気温40℃をいくらかでも涼しく感じさせるため……ではなくて、アメリカ人とベトナム人関係者に、あらかじめ指定された地点へ集合を促す暗号放送であった。


アメリカ大使館屋上からヘリコプターで脱出

 こうしてサイゴン脱出作戦が始まる。翌朝までの24時間、ヘリコプターは市内の建物屋上などから人々を乗せ、米海軍の艦船へピストン輸送を続けた。ヘリコプター関係者は丸1日、パイロットも整備員も眠る暇なく、文字通りの不眠不休でヘリコプターを飛ばし続けた。市内のアメリカ大使館には、大勢の南ベトナム人が北の攻撃を恐れて押し寄せた。そのため最初は17機のUH-1を準備しただけだったが、それでは間に合わぬというので海兵隊、空軍、陸軍などおよそ100機のヘリコプターが動員された。

 脱出したのはアメリカ人を中心とする約7,000人。ヘリコプターとしては史上最大の輸送作戦となった。このとき脱出したベトナム人の中に9歳の少年がいた。少年はそのままアメリカに渡り、のちに米海兵隊のヘリコプター・パイロットになったという話である。

 大使館から飛んだ最終便は海兵隊のCH-53大型ヘリコプターだった。乗っていたのは最後まで大使館の警備に当たっていた海兵隊員たち。4月30日午前7時58分という記録が残っている。

 それから3時間もたたぬうちに、北ベトナム軍の戦車が南ベトナム大統領府の正門を突破した。同時にサイゴンの名前はなくなり、「ホーチミン・シティ」へ変わった。


脱出してきたヘリコプターを船上から海中へ落とす

(西川 渉、『ヘリワールド2016』掲載に加筆、2016.7.9)

【関連頁】

  <ヘリヴィア―7>同軸反転機とタンデム機(2016.6.11)
  <ヘリヴィア―6>ベル・ヘリコプター(2016.6.7)
  <ヘリヴィア―5>ヘリコプターの父(2016.6.4)
  <ヘリヴィア―4>近代化への歩み(2016.6.2)
  <ヘリヴィア―3>初めて人を乗せて飛ぶ(2016.5.26)
  <ヘリヴィア―2>ローター機構の進歩(2016.5.21)
  <ヘリヴィア―1>らせん翼の着想(2016.5.18)
  <ヘリワールド2016>ヘリコプター博学知識(2015.11.26)

    

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