<チェルノブイリ>

戦史に学ぶ

 去る5月なかば、NHKテレビが深夜0時から3夜にわたって、チェルノブイリ原発事故25年の現状を放送した。それを見て、ふと思い出し、むかし録画したDVD、ナショナル・ジオグラフィックによるチェルノブイリ事故のドキュメントを押し入れの中から探し出した。「チェルノブイリ・メルトダウン」と題する5〜6年前の放送である。ということは、事故から20年ほどたった頃の制作と思われる。

 以下は、これらの映像を総合して文字に要約したものである。

 チェルノブイリ原子力発電所の事故は1986年、当時のソ連ウクライナ地方で起こった。

 発電所の従業員は最先端の科学技術に誇りをもち、自分たちの夢がかなったような気持ちで仕事をしていた。なにしろ重さ1キロのウランから300万キロの石炭に相当するエネルギーが取り出せるのだ。

 原子炉は4つ。そのうち最も新しい4号炉は3年前に完成したもので、その日は安全テストがおこなわれることになっていた。時間は深夜。何故そんな時刻にテストをするのか。原子炉を停止する必要があるので、電力供給に影響が出る。そこで電力消費の少ない夜間が選ばれたのである。しかし、それだけに老練の技術者が帰宅してしまい、若い操作員だけでテストをする結果となった。簡単なテストだから、誰でもできると考えたのであろう。

 4月26日午前0時、夜勤交替をしたばかりの若い操作員たちが持ち場についた。0時5分、テストの準備が始まる。原子炉の出力レベルを下げて、メイン・ポンプを停めたあと、予備のポンプが正常に作動するかどうかを見るのが目的であった。

 そのため出力レベルを徐々に下げていったが、0時28分、急に大きく下がった。直ちに出力を上げ、レベルは安定したかに見えた。そこで予備ポンプのスィッチを入れると、水の流量が増加し、蒸気の発生が止まって、タービンが停止してしまった。

 午前1時19分、再びタービンが動き始めた。しかし、炉心の温度は危険なほど高く上昇していた。

 1時23分タービンを停めて、テストの本番開始。すると温度が急上昇して異常を知らせる警報音が鳴り始めた。若い操作員は緊急停止ボタンを押したが反応はなく、異常な高温のために炉心の破壊が始まった。そして1分後、1時24分に4号炉が爆発したのである。

 原子炉を覆っていた鋼鉄の容器上部2,000トンが吹き飛び、8トンの放射性物質が空中高く飛び散った。

 発電所の中にいた消防隊の待機室で警報が鳴り、14人の隊員が駆けつけた。のちに消防士の数は、外部の消防署にも応援を求め、相当な人数になったが、彼らは誰も火災の原因が原子炉の事故であることに気づかぬまま、炎に包まれた4号炉に向かって消火活動を進めた。

 消火活動は1時間半にわたって続いた。ところが、この間早くも消防士の中に意識を失って倒れるものが出てきた。急性放射線症候群で、熱傷、心臓マヒ、肺の損傷などの症状で31人が死亡した。

 チェルノブイリ原発で働く人びとは、3キロほど離れたプリピャチの町に家族と共に住んでいた。人口およそ47,000人。住民たちは事故の内容など知らされぬまま、半日ほどたったところで不意に「原発に異常事態が起こったので避難せよ」という指示により、3日間の避難と聞いて着の身着のままでバスやトラックに乗った。バスとトラックは15キロもの長い列をつくって、100キロほど南のキエフに向かって移動する。

 爆発後の原発からは放射能が漏れつづけた。それを抑えるために、延べ1,800機のヘリコプターが5,000トンの薬剤やコンクリートの投下に従事した。

 当時、世界は東西冷戦の真っただなかにあった。アメリカは、ゴルバチョフ大統領の率いるソ連の動きを絶え間なく監視していた。そのため爆発からわずか28秒後、チェルノブイリの上空を通過した偵察衛星によって、早くも異常事態が発見された。衛星写真に写ったチェルノブイリの地点が赤く染まっていたのである。

 一方、スウェーデンでは、原子力発電所に出勤してきた職員が中に入ろうとしたところ、入り口に据えつけてあった放射線量測定用のモニターが異常を感知して警報音を鳴らした。本来このモニターは発電所の中にいた従業員が外へ出るときに、体に付着した線量を測るものである。ところが不思議なことに、中へ入るときに鳴ったのだ。

 よく調べると、警報音は外からきた人の靴に反応して鳴るらしいことが分かった。つまり発電所内部の放射能によるものではなく、どこかで核実験がおこなわれたのではないかと考えられた。

 その日遅く、スウェーデンは、放射能の発生源がソ連領内であることを突きとめ、ソ連政府に問い合わせた。このことによって、ようやくソ連もチェルノブイリ原発の事故を認め、翌日には世界中の新聞が1面トップで大々的に事故の発生を報じた。日本では1986年4月30日朝の新聞である。

 これに対して、ソ連国内では事故の発生を認めながらも「適切な対応がおこなわれている」という控えめな報道がなされるだけであった。

 原子炉は84分で崩壊した。ソ連当局は事故の当日、直ちに国内の科学者を集め、調査を開始した。その方法は先ず、現場作業員からの聴き取りであった。

 一方イギリスの科学者は、ずっと前からソ連の原子炉の欠陥を知っていた。温度が短時間で急上昇することである。

 原子炉はウラン燃料で熱を発生させる。この発熱した炉心に水を通すと水蒸気に変わり、タービンを動かして発電機を回し、電気を発生する。この電気でメイン・ポンプを回し、水の流れをつくるわけだが、この水は炉心を冷やす役目も持っている。しかしタービンの回転が落ちて、充分な電力が発生しなければ、水の流れも減って炉心の温度が上がる。

 さて、事故当時の安全テストは、メイン・ポンプを停め、2つの予備ポンプがうまく作動するかどうかを確認することだった。それが実際におこなわれると、予備ポンプが作動して大量の水が流れこみ、水量が多すぎて水蒸気が発生しなくなった。そのためタービンの回転が落ちたのである。

 そこで、水蒸気の発生を増やすには、炉心の温度を上げなくてはならない。温度を上げるには炉心の制御棒を減らす必要がある。制御棒は211本だが、これは21本以下に減らしてはならないことになっていた。にもかかわらず、操作員はどんどん減らしていって6本にしてしまった。

 彼は21本以下にしてはならないことを知らなかった。あとは水の量を増やして冷却するしかない。ところが水量を担当する操作員は、逆に水が多すぎることに気がつき、水の流れを止めてしまったのである。

 このため炉心は、制御棒が6本しかないうえに水もなくなって、温度が急上昇した。おまけにタービンも停止して、エネルギーが急増し、爆発に至ったのである。

 

 こうして8トンの放射性物質はチェルノブイリの上空1,000メートルまで噴き上げられ、10日後には日本やアメリカにも届いた。

 溶融した炉心は、いわゆるチャイナ・シンドロームになるおそれが出てきた。メルトダウンによって地中に潜りこみ、その放射能が地下水に混入するというので、原子炉の下に厚いコンクリートの板を挿しこむことになり、180メートルのトンネルが掘られた。そして上の方には、原子炉全体を覆う石棺が建設されることになった。

 完成は206日後であったが、この間、さまざまな作業に当たったのはおよそ80万人の軍隊であった。作業員は重さ30キロの鉛の防護服を着て、がれきの片付けなどに当たったが、放射能が多くて3分で交替しなければならないほどの過酷な作業環境であった。そして数千人がのちに死亡したのである。

 事故調査の結果は、上述のとおり、深夜の原子炉テストにあたったのが若い操作員たちで、1人は制御棒を抜きすぎ、別の1人は冷却水を減らした。そうしたことから、知らず知らずのうちに原子炉が不安定になり、爆発に至ったことが判明した。

 しかし調査団は、これらの操作員に罪はないという結論を出した。問題は管理体制にあるというので、発電所の幹部職員3人が10年の禁固刑に処せられた。 

 その後、驚いたことに、チェルノブイリ原発は4号炉を除く1〜3号炉が事故の後も15年にわたって稼働をつづけ、多くの人が今まで通り発電所の中で働いた。原発全体が封鎖されたのは2000年で、その周辺30キロ圏内が立ち入り禁止となったが、遅すぎたといわざるを得ない。

 この事故で影響を受けた人は225万人以上。死亡した人は推定8,000人を超える。また世代を超えた影響も大きく、先天性異常をもって生まれてくる子供が増え、小児甲状腺ガンは発生率が通常の100倍に達した。結果として、ウクライナの人口は事故以前にくらべて、25年ほどの間に700万人ほど減って、現在は約4,585万人である。さらに、かつては75歳だった平均寿命は、55歳まで下がると見られている。

 テレビ画像はここまでだが、チェルノブイリの原発事故は医学的な問題ばかりでなく、政治的な影響も大きい。この事故によって、ソ連政府に対する住民たちの反感が強まった。これがウクライナのソ連からの離脱と独立のきっかけになったことも否定できない。ひいては6年後のソ連邦崩壊(1991年)の一因にもなったのである。

 こうした状況を背景として、先日ロシアの交響楽団の来日がニュースになった。彼らは日本各地で演奏をしたが、一人ひとりが線量計を持っていて、常に身のまわりの放射線量を測っていたという。その家族も、多くの人が日本へゆくことに反対だったらしい。

「戦争は戦史に学べ」という。事故や災害も戦争のようなもので、チェルノブイリの前例は原発事故における格好の教材である。しかるに、あんな愚かしいことはわが国で起こるはずがないとして、この教材に学ぼうとしなかった日本は、今まったく同じ過ちをくり返しつつある。下手をすると国を滅ぼすことにもなるであろう。

(西川 渉、2011.6.23)

【関連頁】
   <小言航兵衛>天災・人災・官災(2011.6.20)
   <小言航兵衛>計画停電の本義(2011.5.23)
   <小言航兵衛>原発黙示録(2011.5.22)
   <原発事故>ある英雄パイロットの死(2011.4.25)
   <小言航兵衛>核戦争が始まった(2011.4.16)
   <小言航兵衛>日本メルトダウン(2011.4.12)
   <小言航兵衛>放射能下に生きる(2011.4.9)
   <小言航兵衛>原子炉注水(2011.3.19)
   <小言航兵衛>天罰(2011.3.17)

表紙へ戻る