<ヘリヴィア>

旅客輸送と要人輸送

(ヘリヴィア=ヘリコプタ+トリヴィア)

定期旅客輸送

 ヘリコプターは長い滑走路が不要という特性から、誰しも旅客輸送に使えば便利であろうと考える。実際は、しかし、そんな簡単なことではなく、実用化から70年経った今も、旅客便はきわめて限られたところでしか飛んでいない。

 世界で初めて都市内のヘリコプター定期便を飛ばし始めたのはロサンゼルス・エアウェイズ(LAA)だった。といっても旅客便ではなく、郵便輸送である。1947年10月から5機のシコルスキーS-51を使って、周辺42ヵ所へ配達する体制。南カリフォルニアの気象条件に恵まれ、就航率は95%に達したという。1949年からはシカゴでもヘリコプター・エアサービス(CHA)が郵便輸送を開始、52年には7機が周辺50ヵ所に飛ぶようになった。

 同じく1952年、ニューヨーク・エアウェイズ(NYA)はシコルスキーS-55を使って郵便輸送を始めたが、翌年には人も乗せるようになり、最初の1年間で1,000人以上を輸送した。しかし郵便優先のために、乗客は出発の15分前まで予約できず、空港の中ではヘリコプターから旅客機へ乗り継ぐのに遠い距離を歩かされ、さらにはヘリコプター機内の騒音と振動など、さまざまな問題点が明らかになった。

 同じ頃ヨーロッパでは、ベルギーのサベナ航空がブリュッセルを起点としてフランス、オランダ、ドイツへのヘリコプター定期路線を開設した。のちにロンドン便も加わり、最終的に8機のシコルスキーS-58(12席)による運航の結果、1959年までの6年間に乗客数は25万人に達した。

旅客輸送の採算性

 ヘリコプター旅客輸送にとって最大の問題は採算性である。ところが、乗客の払える金額と運航費の釣り合いがとれない。

 アメリカの旅客輸送3社も採算がむずかしいというので、1954年から政府の補助金が出るようになった。しかし、なかなか利益が出ない。NYAの1962年度の収入総額は約330万ドルだったが、そのうち補助金は約250万ドルというから、事業としては極めて困難。政府も将来の見通しがないまま補助金を出し続けるわけにはゆかないとして、1967年以降の補助を打ち切った。そのためLAAは1970年、CHAは75年に運航を中断。NYAだけはバートル107やS-61を使って79年まで赤字続きのまま頑張った。

 これより先、NYAは1965年からマンハッタン中心部にできたパンナムビル屋上で発着するようになる。ところが1977年5月16日、乗客がS-61Lに乗ろうとしているとき、主脚のひとつが折れて横倒しとなり、そばにいた4人が死亡した。さらに回転中の主ローターが吹き飛び、破片がビルの下を歩いていた人に当たって死亡させた。このときからマンハッタン上空は飛行禁止となる。

 さらに1979年4月18日、S-61Lがニューアーク空港を飛び立って間もなく尾部ローターブレードが破断、操縦不能のまま頭から突っ込み、乗っていた3人が死亡、13人が負傷した。NYAは、これで運航を中断、終焉を迎えた。

 同じ頃、サンフランシスコ・オークランド・エアラインズ(SFO)が補助金なしでサンフランシスコ湾を横断する旅客定期便を開設する。しかし、これも採算が合わずに1976年、13年間の運航を閉じた。

免税品が買えない

 ニューヨークではヘリコプター定期便がなくなった後、大手エアラインがファーストクラスやビジネスクラスの旅客サービスとして、空港とマンハッタンとの間でヘリコプターによる無償の送迎をするようになった。その一つがパンアメリカン航空のベル222によるサービス便で、私もマンハッタンの東60丁目ヘリポートからケネディ空港(JFK)まで乗ったことがある。

 ホテルから電話で予約すると、何時までにヘリポートにくるようにといわれ、そこで待っているとヘリコプターが飛んできて、降りてきた係員が搭乗手続きと手荷物のチェックインをして、東京までのボーディングパスを渡してくれる。JFKまで8分ほど。東京ゆきの旅客機が停まっているボーディング・ブリッジのすぐそばに着陸、そのまま階段を上って機内に入ることができる。時間の無駄がなくて便利なことこの上ない。

 もっとも当時、外国旅行というとウィスキーや香水が立派なお土産だった。ところが、余りに便利すぎて免税店に立ち寄る暇がなく、なんだか損をしたような気持ちで帰国した覚えがある。

シティ・エアリンク

 日本では1985年、3月から9月までの半年間に開催されたつくば科学万博の間、東京ヘリポートから博覧会場までの旅客輸送が実験的におこなわれた。

 その実績にもとづいて1987〜91年の間、羽田〜成田間でシティ・エアリンクのヘリコプター定期便が開設された。しかし羽田空港に発着するエアラインの空域を避けるために東京湾の横断が認められず、多摩川沿いに東京の西側を大きく迂回して成田へ向かうコースが指示された。

 そうなると飛行時間が増えるばかりか、住宅地に騒音が集中するというので、飛行高度を2,900フィートまで上げたため、雲が多くて有視界飛行ができないことも多く、就航率が下がって乗客の信頼を失い、採算が合わないまま運航中止となった。

要人輸送

 ヘリコプターは一般旅客ばかりでなく、個人の自家用機や企業トップが乗用機としても使われる。さらに政府の要人輸送にも使われるが、国の元首がヘリコプターを使うようになったのは1957年、アメリカのアイゼンハワー大統領が最初だった。機種はUH-13J――米陸軍向けのベル47である。翌年、H-13はシコルスキーVH-34A(S-58)に替わり、61年まで陸軍が「アーミー・ワン」の呼称で飛行し、ホワイトハウス南側の芝生の前庭でも離着陸するようになった。

 1961年からはケネディ大統領がシコルスキーVH-3A(S-61)を使い、78年には改良型のVH-3Dに替わった。その後、2001年頃から新しい大統領機が必要ということになり、アグスタウェストランドAW101がVH-71ケストレルの呼称で採用された。しかし開発コストがかかり過ぎて2009年キャンセルとなる。

 その後、2014年にシコルスキーS-92がVH-92の名前で正式に採用され、先ずは6機の大統領機が発注され、2018年までに納入される予定。最終的には2023年までに21機となり、閣僚などの要人輸送にも使われる。

 イギリスでは、エリザベス女王がシコルスキーS-76C++に乗っている。初めて女王専用ヘリコプターが登場したのは1998年12月21日、S-76C+だったが、2009年にS-76C++に変わった。

 ロシアのプーチン大統領はMi-8MTVを使用中。昔ながらのMi-8を要人乗用機に改修したもので、エンジン出力を上げ、機体を強化して、円形の窓を角形に変え、胴体側面には細長い燃料タンクがついた。特に変わったのは尾部ローターを機体右側から左側に移したこと。また補助電源、通信アンテナ、気象レーダー、赤外線対応装置などを装備した。機内には、アメリカの大統領機に負けじとばかりに大きな安楽椅子、木目調の高級家具、ソファ、トイレ、電話、ビデオなどが備えられている。

 ドイツの政府要人はユーロコプターAS532クーガーを3機、イタリアでは大統領と政府要人がアグスタSH-3DシーキングとAW139を2機ずつ使っている。

日本の政府専用機

 日本の要人輸送は「政府専用機」の呼称で、航空自衛隊の運航するボーイング747と陸上自衛隊のスーパーピューマによっておこわなわれている。ただし747は2019年度から3機の777-300ERに替わる。

 スーパーピューマも3機が使われており、普段は木更津基地に待機する。ここから必要に応じて羽田空港でも首相官邸屋上にでも飛んで要人を乗せる。福島原発の事故に際しては菅直人首相が早朝、官邸から直接このヘリコプターで現地へ飛んだことは記憶に新しい。

 ヘリコプターの導入は1986年1月。翌87年6月には昭和天皇が初めてお乗りになり、大島三原山の噴火の跡を上空からご覧の後、大島空港に降り立たれた。このとき私はテレビ・ニュースで、天皇をおのせしたヘリコプターが下田の臨時ヘリポートを飛び立つところを見て感慨を覚えた。これでヘリコプターも、日本人にとって普通の乗り物になったと思ったからだ。

 では、天皇ご自身のご感想はどうだったか。『昭和天皇ちょっといいお話』(松崎敏弥著、ごま書房、1997年11月5日刊)には次のように記されている。

「初めて乗ってみたが……思ったより乗り心地がよかった。ヘリコプターは高度が低いので、災害の状況がよくわかり、大変よかった」

「島の上空から、また山頂近くで災害の状況を目のあたりに見て、当時島民が大変な目にあったことがよくわかった。ただ思ったより緑が残っていたので安心した」

 このとき、政府専用ヘリコプター3機の初代航空隊長は星野亮氏であった。星野さんとは後に親しくさせていただいたので、上の天皇初飛行の機長を務めたときのもようも直接聞くことができた。それによると、陛下は飛行中わざわざコクピットまでお出ましになり、機長の背後から計器パネルを興味深げにご覧になったらしい。

 その後、昭和63年(1988年)8月、ご静養中の那須御用邸から戦没者追悼式のために東京へお戻りなるときもヘリコプターをお使いになった。テレビで見ていると、迎賓館の前庭に着陸した機体のタラップを降りる天皇の足もとがおぼつかない。

 あのようなときは、お側の人がお手を支えてあげたらいいのではというと、星野さんからは「とんでもない」という返事が戻ってきた。「神様に触れるなど、そんな畏れ多いことができますか」。天皇の「お召し機」を操縦する機長の緊張ぶりが分かるような気がする。

(西川 渉、『ヘリワールド2016』掲載に加筆、2016.11.6)

【関連頁】

  <ヘリヴィア―11>日本のヘリコプター・メーカー(2016.9.1)
  <ヘリヴィア―10>メーカーの歩み(2)(2016.8.31)
  <ヘリヴィア―9>メーカーの歩み(2016.8.5)
  <ヘリヴィア―8>戦争とヘリコプター(2016.7.9)
  <ヘリヴィア―7>同軸反転機とタンデム機(2016.6.11)
  <ヘリヴィア―6>ベル・ヘリコプター(2016.6.7)
  <ヘリヴィア―5>ヘリコプターの父(2016.6.4)
  <ヘリヴィア―4>近代化への歩み(2016.6.2)
  <ヘリヴィア―3>初めて人を乗せて飛ぶ(2016.5.26)
  <ヘリヴィア―2>ローター機構の進歩(2016.5.21)
  <ヘリヴィア―1>らせん翼の着想(2016.5.18)
  <ヘリワールド2016>ヘリコプター博学知識(2015.11.26)

 

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